about us

身の回りにあるどんなものでも, 生活の中には必ずデザインされたものがあります。
もしくはそう謳われていない「何でもない」ものや,
どのような経緯で作られたのか分からないようなものまで,
全て意匠化(デザイン)を経て形にされています。

amplogはそのような普遍的なデザインに対して
“編集(Edit)”“意匠(Design)”“構成(Compose)”を施すことで,
身の回りにある価値を別の価値として置き換えながら,
多義的な検証を展開していくウェブコンテンツです。

あまり耳慣れない専門的なサブジェクト, 既に知り尽くされたアイデアやコンセプト,
それらをamplogの視点で再構築し,
ジャンルやカテゴリーにとらわれない創造的なコンテンツを展開していきます。

Review

08 | Representation or expression?

タイポグラフィの領域 
再現と表現の世界

May 15, 2015

本書はタイポグラフィの執筆活動でも著名な河野三男氏と、アドビシステムズの山本太郎氏の間で交わされたファックスでの往復書簡による紙上論議を書籍としてまとめたもので、とあるレポートに対する見解の相違をきっかけに、タイポグラフィの役割が「再現」なのか「表現」なのかという論争にうつっていく様子を記録したものです。
ブックデザインもその構成に倣ったものとして、縦組で文章を作成していた河野氏のページは右開き、横組で作成していた山本氏のページは左開きとなっており、それぞれの書簡を交互に追っていくようスピンも2本(!)ついています。つまり論考を交互に読むには毎回反対側のページに飛ばなくてはならず、この点は編集子も断っている通り、少し読みにくい構成になっています。けれどもこの煩わしさは、短いながらもインターミッションの役割も担っているため、書簡を交わしている感覚をページの往復で表しているともいえます。

両者の論考の背景に「活字を使用した情報伝達を中核におく、デザインの現状に対する熾烈な問いかけ」があるとして、編集子(おそらくレフェリーのつもりでしょう…)は、この論争をデザインをめぐっての対話として紹介するのが妥当としています。このパースペクティブの取り方が両者の論考に明確な差を与えることになりますが、ひとまず両者の立脚点を簡単にまとめてみます。


論争の始まり

まず1999年6月26日に行われたタイポグラフィに関するスライド報告会の感想レポートとして、山本氏が河野氏に送ったファックスから論争は始まります。この一通目はおおむね報告会に関しての論考といった具合ですので、自身のタイポグラフィ観を強く表明するようなものではなく、あくまで感想という範疇にとどめています。この報告会についてはあまり詳しいことは書かれていませんが、白井敬尚氏のレポートで強調されていたイタリック体の魅力についての山本氏の解釈に、河野氏が火蓋を切ります。
河野氏の主張は、山本氏のイタリック書体についての解釈が自分の捉え方と異なっているということ、また一部のタイポグラフィの形態は、「再現か表現」かという基準をもとに論を重ねるのが有効になるのではないか、というものです。イタリック活字のリポートを「身体性の解放」と捉えた山本氏に対し、むしろあのリポートは「身体性の封じ込め」の面白さについて語っていたのだと河野氏は主張します。それは、身体性の解放を促すある種の自己表現の為に活字を用いたデザインは、タイポグラフィの的を得ていないというものです。
それに対して山本氏は、レポートの感想として「身体性の解放」を全面的に提唱してはいないが、同時に「身体性の封じ込め」のみを範疇ともしていない、という主張を展開しています。また表現過多のデザインを全て肯定はしないが、同時に「表現」的な要素もない「再現」などありえないと断定しています。

それぞれの立脚点

これを出発点として話はタイポグラフィの審美性、媒体に対しての有用性、アートとデザインについて等々、互いに譲る事のない論争に終始していくことになりますが、山本氏が互いの論旨として、タイポグラフィとは、
河野氏 = 原作者のテキストを「再現」する行為
山本氏 = テキストを視覚的な「表現」に変換する行為
というように考えているとしています。

そこを基本軸に意味と定義を互いの範疇に手繰り寄せる論争が展開されていくのですが、実はそこまで両者の立脚点に違いはありません。磁石の同極のように、ある一定の距離から付かず離れずの平行線を辿っていきます(実りの少ない空中戦だと書いている箇所もあるくらいです)。タイポグラフィの役割に関する知的な論争を眺めるだけでもそこそこに面白い本著ですが、ここで終わらす前にもう少しだけ踏み込んでみるのであれば、そこにイマイチ言及の少なかった「デザイン」という言葉にフォーカスしてみると、少し別の意味合いが加わるかもしれません。

デザイン=謀略を企てる術?

例えば哲学者であるヴィレム・フルッサーの著作『デザインの小さな哲学(原題訳:物のありようについて)』の中に、その言葉の由来として興味深い文章が残されています。それはデザインという言葉がラテン語に由来するもので、そこに含まれているものは「計画」「意図」「陰謀」「狙い」「プラン」など、とりわけ「策略」や「詐術」に関係しているということです。つまりデザインするという行為は、詐術を用い、罠を仕掛ける行為と同義に置かれており、何かを騙す(欺く)という行いを意味していたということです(この主張にはとても勇気を感じます)。またデザインは「機械」「技術」「芸術」といった言葉と密接な関係にあり、その内的つながりにおいて「デザイン」はその架け橋となってきたという説明も見逃せません。
すなわち表現としての「タイポグラフィ」も再現としての「タイポグラフィ」も、どちらも文化的コミュニケーションに携わる詐術にそのルーツを持つことになります。アルファベットが生まれてから活字という一つの機械がデザインされた時、複製による同一文書の大量生産は、人が文字を書いて文書を生産する自然法則の限界を策略によって欺き、制約から自由にすることを可能にしました。つまり、それにかかる絶対的な時間を(デザインという詐術によって自然法則を欺くことで)、劇的に圧縮したということです。それは人間が自然に関わるうえで必要だった文明的な創意として、デザインが生み出されたと言っていいのではないでしょうか。

審美性の有用性

表現と再現の重要な論点になっている、主観と芸術的な側面に関する審美性については、ブルーノ・ムナーリが『モノからモノが生まれる』で引用した老子の一節(養身第二)から、デザインという行為に常につきまとう問題点を眺めてみます。この句からムナーリは、物事の美醜にとらわれていてはならず、かつ豪奢に物事を見せることがいかに愚かしいことかを書いています。この辺りは質実なタイポグラフィを求めながらも異なる側面を評価されたウィリアム・モリスの書籍にいくらか言及できるかもしれません(読まれるより先に飾り物になってしまった書籍たちに審美性がどう作用したかのでしょうか…)。しかし、ムナーリのデザイン論はそのような表面的な審美性というより、デザインにおけるプロセスに主軸が置かれています。このアイデアとプロセスの中に宿るデザイン行為に、作り手(デザイナー)と受け手(消費者)の間に介在する「表現」と「再現」の違いを見出すことも可能かもしれません。

少し本書の内容から逸れてしまった部分もありますが、この辺りをふまえながら「再現」と「表現」の範疇を考えてみることで、このテーマがもっと広く深い文脈につながっている可能性が見えてくるのではないでしょうか。